16世紀ごろのノルマンディールーアン、のちの陶芸家ベルナール・パリッシー(Bernard Palissy, 1510-1590年)によって土器の製造が始まりました。彼は独学で釉陶の研究に取り組み、貧困の中、家の家具や床板などを窯の燃料にして研究を続けたそうです。

その後パリッシーは中世以来、陶器の生産地として知られるイタリアの小さな町、ファエンツァ(イタリア語: Faenza)に修行の旅に出ます。ここはフランス語の “Faïence” の語源となった由来のある町です。

イタリアの匠や製陶職人との修行を終え、フランスにもどったパリッシーはイタリアルネッサンスの歴史的なシーン、アラベスクのモチーフ、エンブレム、紋章を表す壮大な陶器タイルを作りました。彼はまた、イタリア風の装飾が施された薬局や食料品の容器を数多く作成し、フランス・ルネッサンスの代表的芸術家の一人となりました。

フランスに戻ってから15年ほどかかってようやく技法を完成し、「田園風土器」として人々に知られるようになります。その後パリのチュイルリー宮殿の庭園の一角に工房を与えられ、製陶に従事し、王室のために作品を制作しました。

ルーアン陶器はルネサンスの新しい生活芸術に寄与し、主にモデル、装飾、モチーフは、芸術に敏感な貴族に取り入れられるようになります。

18世紀以降、ルーアン陶器の技術はフランス全土に広がり、カンペール、ヌヴェール、ユゼス、マルセイユなどの陶器産業の誕生に大きな影響を与えました。逆にこのことにより新しい競争についていけずノルマンディーの陶器産業の少しずつ衰退していきました。

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