JAPY社は1773年に創業した当初は時計の製造工場でした。しかし創業者フレデリック・ジャピー(1749-1812)は、時計だけでなく製造業全般の工業化のパイオニアでもありました。創業後、あらゆる種類の機械類を発明し製品化していきます。しかしそのキャリアは祖父に弟子入りする時計職人からのスタートでした。

フレデリック・ジャピーは1749年、フランス東部のドイツ国境近いブルゴーニュ地方にある街モンベリアールの小さな村、ボークールで生まれました。

彼は17歳の時、モンベリアールの時計職人であった祖父のジャック・ジョルジュ・フレデリック・ジャピーに弟子入りしました。

当時、時計やその部品は各地の小さなコミュニティで、専門の職人によって手作業で製造されていました。

ジャピーは24歳の時、それらを一つの工場内ですべてが行えるようにします。現存する数少ない時計製造機を購入、故郷のボークールに持ち帰り、部品と生産の品質を一括管理する新しい製造工場を作ります。これは時計の製造方法を根本的に変えることでした。機械を利用して1か所(製造工場)で部品を順次生産することで、時計部品は以前の約半分の時間で製造・組み立てることが出来るようになりました。



フレデリック・ジャピー



ボークールの村


ボークールのジャピーファクトリー


Japyの商標

ジャピーの工場は、多くのスタイルでより高い価格レベルで時計を生産し続けました。1806年に、彼は3人の息子と共に事業を拡大、社名も正式に Japy Frères となり、製造を多様化して時計の他にも、コーヒーグラインダー、タイプライター、エナメル製品、台所用品、事務機器などを製造しました。

しかし、彼の息子たちには父親や祖父のような創造的で独創的な才はなく、1900年代初頭までに、多くの事業が売却され製造工場は解体されました。

1930年代、Japy Frères は再起を図り、より広い市場にアピールするためにブリキのケーシングと様々な幾何学的スタイルのデザインのモデルを製造しました。しかし市場で人気の Jaz や Blangy などの他メーカーに追いつくことは出来ませんでした。その後多くのフランスの時計職人と同様に、第二次世界大戦の終戦とともに、Japy Frères はその歴史に終止符を打ちました。